帰佐後15日
悩みは成長の時期だと良く言われる。僕は大きいミッションのために帰佐したわけだが、その偉大さや恩師のレガシーの大切さを忘れかけていた。全くの愚か者である。少しずつやらなくてはならない事を把握する中、僕が何か仕事を与えられるのではなく、自分からやらなくてはならない事が多い事に気付いた。待っていても仕方が無い。僕の存在や出来る事を佐賀全体にまず知ってもらわなければならない。もっと色んな人に会わなくてはならない。古賀先生はどうやってそれをやってきたのだろう。
疑問を抱えて、とにかく勉強することにした。古賀先生の言って来た事ややって来た事を理解しようと、昭和47年から残っていた著作議事集を読みあさることにした。30代前半(僕と同じぐらいの年齢)の古賀先生でも視野が広くて、グローバルな考え方とダイナミックな行動力に圧倒された。恩師と自分を比べても仕方がないが、自分がいかに小さい人間かと言う事が痛い程わかった。当時38歳の時のインタビューで「後20年走ります」と言っていた恩師は、それから丁度20年後の58歳を迎える数日前に亡くなったのだ。涙がまた溢れ出て来た。
恩師の言葉が胸に響き渡った...
「自分の足下を見つめて、日本人である事、日本の文化と言葉を大切にしながら外国のものを吸収しなさい。」
果たして、僕はそれが今まで出来ていただろうか。外国のものは確かに吸収して来た。アメリカ以外でも活動と勉強をして来た。だが、その度に日本の事を伝えてきただろうか。一方通行ではなかっただろうか。僕には日本人として出来ること、例えば、空手や和太鼓などは伝える技術までは持っていなかった。古賀先生は空手をパリでも教えていた。僕には演劇という物を通じて、沢山の国際交流をして来たつもりだが、僕がもともと学んだ演劇は日本の物ではなかった。
日本に帰ってきた今、僕は自分の足下を見つめることをしたい。日本の事をもっと学びたい。そう純粋に思えて実行できる機会が今あるのだ。帰佐後15日でやっと、まったりした自分から抜け出せそうだ。
疑問を抱えて、とにかく勉強することにした。古賀先生の言って来た事ややって来た事を理解しようと、昭和47年から残っていた著作議事集を読みあさることにした。30代前半(僕と同じぐらいの年齢)の古賀先生でも視野が広くて、グローバルな考え方とダイナミックな行動力に圧倒された。恩師と自分を比べても仕方がないが、自分がいかに小さい人間かと言う事が痛い程わかった。当時38歳の時のインタビューで「後20年走ります」と言っていた恩師は、それから丁度20年後の58歳を迎える数日前に亡くなったのだ。涙がまた溢れ出て来た。
恩師の言葉が胸に響き渡った...
「自分の足下を見つめて、日本人である事、日本の文化と言葉を大切にしながら外国のものを吸収しなさい。」
果たして、僕はそれが今まで出来ていただろうか。外国のものは確かに吸収して来た。アメリカ以外でも活動と勉強をして来た。だが、その度に日本の事を伝えてきただろうか。一方通行ではなかっただろうか。僕には日本人として出来ること、例えば、空手や和太鼓などは伝える技術までは持っていなかった。古賀先生は空手をパリでも教えていた。僕には演劇という物を通じて、沢山の国際交流をして来たつもりだが、僕がもともと学んだ演劇は日本の物ではなかった。
日本に帰ってきた今、僕は自分の足下を見つめることをしたい。日本の事をもっと学びたい。そう純粋に思えて実行できる機会が今あるのだ。帰佐後15日でやっと、まったりした自分から抜け出せそうだ。
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