人生の分岐点

今までは...

無我夢中で演劇に没頭して生きてきた。本当に大学で演劇を教えるのが全てだった。大学生と接している時は自分らしくなれる純粋な時間で、こんなに仕事が充実していることに感謝している毎日だった。仕事さえ上手く行っていれば、それで良かった。まだ助教授になって2年も絶っていない。教える内容を研究して試す事のできる面白さは計り知れない。学生の反応に驚かせられたり、がっかりしたり、怒ってみたり、感動したりする。僕は世界一幸せものだと思っていた。アメリカにずっといるつもりだった。仕事が幸せをずっと僕に与えてくれると信じていた。場所なんでどこでも良かった。アメリカと言う国は良いところ もあれば、今では無視できるようになった嫌なことも多い。アメリカだからと思って生活の基準を落としていたのだろう。演劇さえやっていれば、他の事はどう でもいいと思い込んでいた。

日本人として、僕の居場所ややっていることに疑問を持ち始めた...

なぜに僕はアメリカにいるのか?アメリカがそんなに好きなのか?アメリカはそんなに素晴らしい国なのか?僕が州立大学の先生として、州政府の組織の中でアメリカの社会に貢献する一員として、教育現場でアメリカ人の若者を育てている。自分はアメリカ人でもないのに、アメリカと言う国に愛国心があるわけではないのに、本当はアメリカが海外でしている事や国の中で起きていることに賛成していないのに、大統領に投票する権利も無いのに。僕がアメリカ人のふりをしているみたいで納得できなくなった。自分のプライドと演劇にこだわることで、自分の生き方を客観的に観ることが出来なかった。恥ずかしく思った。

日本は...

やっぱり好きだ。アメリカで長く暮らしていく中、自分は日本人である事につくづく気付かせられる。やっぱり日本の物が本当は好きで愛着がある。昔は日本の嫌いだったところもな んとなく悪く思わなくなってきた。決して日本のやっていることにも全て賛成はしない。だが、日本人として僕は責任がある。日本人の社会人として、本当は日本社会に尽くすべきである。自分が日本でも教育者でいられるのであったら、日本の子供を育てたいと思う。

ただ日本で今と同じ仕事をするのは難しい事を知っていて、そのためにアメリカにこだわってきた。一回一途になるとなか なかあきらめない性格の僕は演劇教育から離れることが本当に怖かった。

去年の12月の日本への帰国が運命を変えた...

恩師に頼まれて、5歳の時から関わっている古賀英語道場でミュージカル「命のまつり」の指導をした。子供達が人前で自分達で努力してで作り上げた作品を公演すると言うことの良さ、充実感、誇り、チャレンジ、一致団結する事、そう言うものを少しでも感じとって学んでくれた。僕が信じている教育が出来た。このミュージカルに関わる前までは僕が演劇と言う物を通じてそれを日本で佐賀で古賀道場で出来ると言う事を知らなかった。

丁度その時期、恩師の命が短いのを知った...

新しい兆しを感じた。僕はこの場所で僕が思っている教育が出来るのではないかと。リハーサルに関しては恩師はノータッチで僕が好きなように、思うように指導した。僕は初めて、古賀道場で自分が出来ることがあって、それを受け入れて貰えるようで、ここでの可能性を感じた。今まで僕が恩師から教えてもらったきた事をこの原点でやるべきではないのかと。やってみたいと思った。日本に帰ってくる理由があるように思えた。恩師の先が長くないのであったら、恩返しとして僕の人生をかけてみてもいいと思った。

今まで自分のために生きてきたのを、人のために生きてみるのもいいのではないか?人のために生きることが自分のために生きる事につながるような感じがした。それが古賀道場だったらできると思った。

そして、恩師が亡くなった...

いくら泣いても、眠れない夜をすごしても、信じられない。でも信じなくてはならない。強くなれなくても、ならなくてはいけない。恩師の心はずっと僕の中で生き続けてくれるから。使命に駆られて、僕は動き出さなくてはいけない。決心はすでに12月に出来ていたはず。運命を感じたのなら、それに逆らうことはできず、運命の中で歩むしかない。

人生の分岐点は今だ。行き先は...

佐賀。

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