喜劇なのか悲劇なのか

今日は人生で初めて水俣を訪れた。

水俣病の公害について学ばせていただく機会をいただいた。とても素敵な街として再生した水俣。今ではとても美味しいお魚が食べれる。快晴の空の下で出会ったのはチャーミングな街並みだった。

しかし、今でも苦しんでいる人たちがいる現実は消えない。歴史も消えない。

人間が近代化を歩んできたことで、自然は破壊されてきた。本当の共存なんてありえないだろう。いくらエコロジーに生きようとしても、破滅の道を間逃れることはできない。戦争も原発も無くならない。地球上に生きる人間は、ゴミを排出し続ける。 処理できないものも作り続ける。

過去からの教訓を感じた時に、果たして自分には本当に何かができるのだろうかと、無力に感じざる得ない。沖縄でも、知覧でも、長崎でも、広島でも、アウシュヴィッツでも、パールハーバーでも。足を運び、この眼で見て、そして涙を流すだけ。

もはや人間の存在は、それなりの正義を信じて行動した結果、失敗を繰り返す哀れな姿を描いた喜劇なのか。笑うしかないのか。それとも、何かがおかしいという違和感をいだいたまま、資本主義社会の中に溺れてどうしようもできない悲劇なのか。

気持ちが揺さぶられた。何のために生きるのか。そんなことを考えさせられた。

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