帰佐4周年

そう、4年が過ぎた。決して早くはなかった。長く濃密な4年間だったと言える。

日本と米国のどちらに永住するかという、究極の選択を迫られた時、自分の心に問いかけて出した答えは日本に帰るということだった。帰国してからのこの4年間、とにかく突っ走ってきたし、今でもそんな日々が続いている。幸せといえば幸せだ。色々な「出会い」があり、それゆえに沢山の「学び」がある。

今でも、アメリカに永住するという選択肢をとったら、今頃どうなっているのだろうと考える。ほんのちょっとでも後悔をしていないと言ったら嘘になる。アメリカの友人達、同僚、知り合い、そんな今は会うことができない人達のことは、やはり気になる。また一緒に活動をしたいと思う。

5歳から志した英語道により、英語というツールを自由自在に扱えるようになったからこそ、広がった世界。それによって、14年間の海外生活へと導かれる。だが、スポーツ選手のようにある程度限定された期間で海外に住むのと、永住するのは違う。日本国籍までは捨てないにしても、ほぼ外国人になるわけである。言葉の響きは格好いいかも知れないが、そんなことではなく、それにはそれなりの覚悟が必要だったのだ。

だが、結局、僕には日本でやり残したことがあったことに気づいた。それは、日本の社会から、あたかも逃げたかのように海外で生活をしていた僕にとって、日本の社会に認めらたいという気持ちはずっと消えなかった。だが、14年間の米国生活に終止符を打ち、2008年に本帰りするまで、日本でろくに働いたこともない。そんな場所で、僕が今までやったきたことが受け入れられて、すぐに活躍できるかなんて解らなかった。知る余地もなかった。

今は、出会いからの学びや世界で得た知識や経験をもとに、日本で活躍できる場所を与えられている。また、日本のために、明るい未来のためにやらなければならないことがある、そんな自分勝手な使命さえも感じる。

「運命から使命へ...。自分はいったい何者か...何をなすべきか...。」

まだその答えは完全にはでていなにしても、少しずつ解ってきたように感じる。 努力は続けるし、それによって自ずと道は開けていくことを信じるしかない。尊敬してやまないロシア人演劇家「メイエルホリド」のように、演劇界に革命を起こすような輩になる夢を描く。また、佐賀の先人達が示してきたように、「おいたち、佐賀んもんがせんで、だいがすっとか?」と言う熱い思いで、これからも突っ走ってやろうじゃないかと思う。

演劇を自分がやる意味と、演劇の社会においての存在意義というものを死ぬまで追求する。それが人生を全うするということではなかろうか。

コメント

人気の投稿